白峰旬『関ケ原合戦の真実』(宮帯出版社、2014年)
- 古文書探偵
- 2020年1月15日
- 読了時間: 3分
更新日:2020年1月19日
正直、目から鱗。従来の関ケ原合戦像を大きく

塗り替える一書である。
通説的な関ケ原合戦像は、端的に言えば、司馬遼太郎の歴史小説『関ケ原』に代表されるものに集約されるだろう。ドラマ、映画化もされ、専門家、歴史好きに広く膾炙した合戦のイメージ。石田三成対徳川家康の対立構図を軸にそれぞれに諸侯が敵味方に分かれ、岐阜県の関ケ原で対峙し、大会戦が展開される。早朝に開戦、最前線の福島正則と宇喜多秀家陣営が激突。昼頃に小早川秀秋の裏切りによって家康の東軍が大勝利を得るというものだ。
ところが、著者は江戸期に成立した軍記物に依存し、尚且つ江戸期に徳川家康が神格化されていく過程で、脚色化され、ふくらまされたフィクションだと弾ずる。家康方が小早川秀秋に裏切りを促した「問鉄炮」、家康が勝利した当夜に大谷吉継陣跡に宿泊したこと、またさかのぼって「小山評定」などの名シーンを全て否定している。
では、どいうものが史実としての関ケ原合戦なのか。白峰氏は「生駒利豊書状」を新史料として掲げる。書状には関ケ原合戦に実際に参加した武将の体験者ならではの描写がなされる。「すはだもの(素肌者。甲冑をつけないで戦場に出る武者)が刀をひっかざして、さっと(斬り)かかってきたのほ、我等(生駒利豊)の鑓にて突き倒し」などといった箇所。合戦場に甲冑をまとわない武者がいたこと、鑓の使用例が多いことなどか列記される。
鉄炮の効果も「制圧射撃」だということも指摘されている。殺傷能力を期待するものではなく、接近戦の折に密集隊形を取る敵陣形を乱すことが目的だという見解も興味深かった。
その上で白峰氏は関ケ原合戦は大枠としては『舜旧記』『十六、十七世紀イエズス会日本報告集』を引用しながら巳の刻(午前10時)に開戦し、小早川秀秋の裏切りによって西軍方が瞬時に敗北したとの見方を提示する。
徳川家康の政治的立場についても言及され、大坂城に成立した毛利輝元・石田三成連合政権の下で、軍事指揮権を剥奪されていたとし、そのため家康は豊臣系諸侯の軍事力に依存して戦わざるを得なかったとみる。なるほどと思うところもあるが、家康がそんなに〝法治主義者〟だったのかといぶかしくもなるが、これからの研究の発展が望まれる。
私の出身地の群馬県桐生市では歴史として関ケ原合戦前夜の旗絹献上の故事が知られ、「御吉例」として話が定着しているが、これは小山評定直後のこととされる。ところが、小山評定がなくなると、この故事も再検討を要する。実は、この故事も江戸時代を下るにつれて、いろいろ脚色が進み、旗絹は大坂の陣、また三河一向一揆、さらには徳川家の祖先される新田源氏の一族である新田義貞の生品明神での挙兵でも活躍する(拙著『桐生新町の時代』より)。関ケ原合戦像の作為的膨張と同じ歩みをたどっている。
『関ケ原合戦の真実』は刺激的な一書であることには間違いない。こうした研究が戦国時代の他の通説にも及ぶと、いろいろ書き換えが進むことであろう。
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